時空を超えた俳人への手紙⑤
今井杏太郎 様
中谷U太
杏太郎先生が亡くなられてちょうど1年。私は4年前に俳句を始めて以来、ずっと先生を蔭の師として学ばせていただいてきました。きっかけはある俳句雑誌で先生の俳句を拝見したこと。一読してその魅力の虜となってしまいました。スローモーションの世界に似た独特の時空で詠まれた作品は、一見、両手を広げるようにあたたかく私たちを迎えてくれるのですが、実はその底には人間の限りなきさびしさが潜んでいるのでした。それは晩年を迎えた私自身の心情であるだけではなく、生きとし生きるものすべてに共通する命それ自体が有するさびしさだと感じました。
先生に直接の指導をいただくことはできませんでしたが、文字となって示された先生の教えは、私にとって大切な指針となりました。先生のお考えを読みながら、まるで先生が目の前におられるような架空の会話を楽しんだこともたびたびでした。
私が俳句を始めて間がない頃、先生にこんな質問をしました。
「俳句をつくるときに大切なことは何でしょうか」
「最も大事なことは、なにを詠むかということではないかと思います」
「何を詠めばいいのですか」
「詠みたいことを思うように詠めばいいのです」
何という会話でしょう。まるで禅問答ではありませんか。教えをいただいた最初の頃は、「この先生は、何と大雑把なことしか言わないんだろう」と頭を抱えるばかりでした。
長き夜のところどころを眠りけり
前にゐてうしろへゆきし蜻蛉かな
ひまわりの種蒔きにゆく男たち
私の大好きな先生の作品の一部ですが、まさにおっしゃる通り。気がついたこと、印象に残ったことをそのまま詠みたいことにつなげ、思うがままに詠んでおられます。これでいいのだ。これがいいのだ。あれから4年目となるこの頃、ようやく先生のお言葉の深い意味が少しは分かるようになってきました。
先生は、俳句づくりの原点として「呟けば俳句」を標榜され、広く知られるようになりましたが、上記の3句にも、眼前にある景観、または、脳裏をかすめた情念をふと呟くように捉えて、出来上がっているのを感じます。私はお尋ねし、先生は答えてくれました。
「どうすれば呟くことができるのですか」
「呟きとは、呟こう、と意識して呟けるものではなく、そのときどきに、ふっと出てくる、いうなれば吐息のようなものです」
「絞り出すのではなく、ごく自然にですか」
「呟きは、その人の持つ情感からこぼれる涙のようなものであり、その人の思考からあふれ出てくる嘆きの思い、ということになるのではないでしょうか」
呟きが俳句になるためには、大変な鍛錬とそこに至るまでの長い時間が必要ですが、いま、4年目を迎えて、私にもようやくその入口が見えてきたように感じております。「4年ぐらいで分かるものか。まだまだ芸を磨きたまえ」という先生のお叱りが聞こえてくるような気が致しますが。
呟きが俳句になる境地に達するまでには、様々な修練が必要だと言うことを先生は教えてくださいました。先生は、言われました――「寡黙になること」「芸を磨くこと」「駄句をたくさんつくること」「あっさり簡単につくる」「ひとりよがりになれ」。
「たとえ句は痩せてもいいから先ず『寡黙』になれ、と言いたいのです。その次の段階で、言いたいことを思い出して、すこしばかり言ってみても決して遅すぎることはありません」
「俳句の面白さとは、当たり前の素材を使って、リズミカルに、もっともらしく、楽しく仕立てあげる『芸』にある、といえるでしょう」
「駄句というのは大事だと思います。駄句が作れないと駄目だと思います。そこから始まっていくんです。しかし、駄句とは、汗と涙と情念の句でなければなりません」
「俳句には、ひとりよがりの思いがなければ、決して〈贅沢〉な句にはならないでしょう。『ひとりよがり』を上手に使えばいいのです」
先生の教えは、少しずつ理解できるようになりましたが、その中でも最も大きな教えとして残っていることは、次の言葉です。
「技術的なことは別にして、『俳句を詩として捉えるな』と決めました。これを、別の表現を借りて言うならば、『大きな声で、これみよがしに詠うな』ということになるでしょうか」
「大変に大胆なことを言ってしまえば、俳句の表現方法は、常に、状況説明的なところに、その原点があることを認めざるを得ません」
いずれの言葉も「呟けば俳句」の原点に返っていきます。先生は最後の句集となった「風の吹くころ」の帯にこう書いておられます。
「『日本の伝統的な文化は、侘寂(わびさび)である』という人が多い。それならば、俳諧は何か…。芭蕉さんは、『俳諧は軽みである』とおっしゃっている。『軽み』とは何か、と思い続けていたが、ある夜ふっと、『軽みとは、儚さなのではないか』と思いついた。すなわち 淋しさに 咳をしてみる 」
ほろほろと蜜柑の花の匂ふ村
八月のをはりのころを祭かな
寒ければ微笑んでゐる仏たち
枯れてゐるものに浅間のゆふぐれも
湯ざめとは松尾和子の歌のやう
老人と老人のゐる寒さかな
老人の遊びに春の眠りあり
先生の俳句を拝見していて必ず感じることがあります。先生は作品の中に、いつもたった1人で佇む存在として、自分を詠み込んでおられるということです。先生の俳句のさびしさの根源は、そこにあるのではないでしょうか。
精神科医であり、船乗りであった杏太郎先生、俳句の儚さに想いをいたされた杏太郎先生、いまごろ、大空のどのあたりを航海しておられるのでしょうか。その旅は、やはり「軽みとしての儚さ」との二人旅なのでしょうか。
月刊花火句会 これからの刊行予定
★8月24日:2013年8月号
『8月定例句会(8月17日)報告』
★8月30日:2013年8月増刊号
『時空を超えた俳人への手紙⑥』仁誠/正岡子規
次回の予定
【日 時】 2013年8月17日(土) 18:00~
【会 場】 名古屋市教育館 第7研修室
【兼 題】 『流星(りうせい)』を含む当季雑詠5句
飛込み参加大歓迎!!
◆参加ご希望の方は、兼題1句を含む当季雑詠5句をご用意ください。
◆事前のご連絡は不要です、当日会場に直接お越しください。
◆参加料は1000円です。
投句の受付
◆投句料は不要、投句される方は、メールにてお願いいたします。
◆作者名は本名でも俳号でもかまいません。
◆投句数は5句以内でお願いいたします。
◆締切りは8月15日(木)とさせていただきます。
◆投句いただいた作品の内、句会での入点句は、次回のブログにて発表させて
いただきます。
◆受付メールアドレス:haikuhanabikukai-aichi@yahoo.co.jp